■本編
彼の声が好きだった。
透明感があって、胸の奥が温かくなるような、そんな綺麗な声。
だから、彼からプロポーズされたときは、嬉しかった。
私には断る理由はなかった。
「コーヒー、淹れてくれ」
「うん、わかった。……あれ? ねえ、コーヒーカップ、どこ? ここに置いてって言ったよね?」
「……あ? あー、はいはい。コーヒーカップ、ここ」
「ねえ、お願い。こういうことは守ってって……」
「うるせーな! わかったって! 本当、お前、めんどくせえよ!」
「……だって。仕方ないじゃない」
「もういいよ! 自分で淹れるから!」
結婚してから数年後。
私たちの仲はすれ違いばかりで、冷え切ってしまった。
彼の声も、今では怖いと感じるようになった。
また怒鳴れるのだろうか。
そう考えると、口ごたえをしない方がいいのかなって思うけど……。
でも、私が生活できなくなるので、それはできない。
私はいつしか、彼が帰ってくるのが怖いと感じるようになった。
そんなある日のこと。
彼が風邪を引いた。
喉を痛めて、しゃべるのも辛そうだ。
「……もう、寝る」
「熱はあるの? 測ってみて」
「……」
「どう?」
「38度」
「凄く高いじゃない。……ねえ、食欲ある? おかゆ、作ろうか?」
「いいよ。危ないし」
「何言ってるの。いつも料理してるじゃない」
彼はしばらく寝込んだ。
病院には頑なに行こうとしなかったから、家で安静にしてても治るのに1週間かかった。
――そして。
「あーあー……」
「声……治らないね」
「……ごめん」
「なんで、あなたが謝るのよ」
確かに、彼の声が好きだった。
その声が変わってしまったことは、ちょっとだけ寂しい。
でも……。
「はい、コーヒー」
「ありがとう」
「うふふ」
「なに?」
「コーヒーカップ、言ったところにしまってくれたのね。ありがとう」
「え? 普通のことじゃないの?」
風邪になってから、彼は変わった。
ウィルスと一緒に、毒が消えたみたい。
口数が減って、声は低く枯れたような感じになっちゃったけど、私は今の彼の声の方が好き。
今は、彼の声だけじゃなくて、彼自身が好きって胸を張って言える。
ふふっ。今はとっても幸せよ。
終わり。
■解説
語り部は盲目の女性。
コーヒーカップの場所にこだわっているのも、見えないから、定位置にないと探すのが大変だから。
そして、風邪をひく前と風邪を引いた後の男は『別人』。
目が見えないので、入れ替わっていることに気付かなかった。
熱を測ったときに、語り部の女性は自分で見ないで、相手に聞いたところや、「おかゆを作る」と言ったときに、男が「危ない」と言ったのも、語り部が盲目であることから。