不安で夜も眠れない
俺は過去に様々な方法で人を騙してきた。
そのおかげで、莫大な富を得ることができた。
だが、そのせいで今の俺は不安で夜も眠れない。
俺の金や命を狙って、誰かがやってくるのではないかと不安なのだ。
顔を合わせる人間がすべて、自分のことを恨んでいるのではないかと思える。
だから、5年以上、家から出ていない。
外なんで出れば、いつ誰に殺されるかわかったものじゃない。
ああ、くそ。
どうして、俺はあんなことをしてしまったのだろうか。
金を得るためだったとはいえ、これでは意味がない。
金を持っていても、こんなに不安な毎日を送ることになるのなら、貧乏でもよかった。
戻れるものならやり直したい。
今日も親友だった男が家族を連れて、俺の誕生日祝いだと言って家にやってきたが、当然追い返した。
別に親友に対して何かをしたわけではないが、きっと俺のことを軽蔑してるだろうし、あわよくば俺の金を奪おうとしてるんだと思う。
友達や肉親だって信用できない。
聖職者だってもちろん、信用していない。
奴らだって、聖職者である前に人間なのだ。
目の前に莫大な金を持つ者がいれば奪いたくなる。
それが人間だ。
ああ。
いやだ。いやだ。
なんでこんなことになってしまったんだ。
どうして俺だけがこんな目に遭うんだ。
どうにかして欲しい。
もう、気が狂いそうだ。
そんな俺の祈りが通じたのか、はたまた脳が見せる幻覚か。
俺の前に悪魔が現れ、俺に言った。
「一つだけお前の願いを叶えてやる」
だから、俺は悪魔にこう言った。
「俺を恨んでいる人間をすべて殺してくれ」
次の瞬間、俺は悪魔に殺された。
終わり。
■解説
語り部は過去の自分があんなことをしなければ、こんなことにはなっていないと思っていた。
つまり、語り部は過去の自分自身を恨んでいたのだ。
そして、この後、語り部の我がままで、数多くの人間が悪魔によって殺されるのかもしれない。
気づかれない男
大勢でファミレスとかに行くとさ、店員に忘れられる奴っているよね。
4人で行ってるのに、おしぼりとか水とか貰えないの。
俺がそれ、よくやられるんだよね。
なんでなんだろ?
ファミレスとか食い物系の店に行くと、よく見落とされるんだよ。
映画館とか遊園地とか、そういうところだと忘れられたりしない。
まあ、当たり前だけど。
で、いつも通っているファミレスに4人で行ったんだ。
席に案内されてメニューを選んでいると、やっぱりコップが3つしか来ない。
いつも通りで3人に笑われる。
またか。
俺はため息交じりに、通りすがりの店員に「水、足りないんだけど」と言う。
その店員は見たことなかったし、急に話しかけられてオドオドとしていたから、きっと新人なんだろう。
その新人は慌てて「すぐお持ちします」と言って、奥に走っていった。
そして、数分後。
その新人はコップを持ってきた。
2個も。
俺たちはそれを見て、「今度は多いよ!」と笑った。
次にボタンを押して店員を呼ぶ。
今度は注文だ。
友達が注文し終え、今度は俺というところで、店員は「かしこまりました」と言って奥に帰ってしまう。
またも忘れられて、みんなに笑われる。
もー。面倒くさいな。
もう一度、ボタンを押して店員を呼ぶ。
今度は、また新人の子がやってきた。
俺はその子にハンバーグ定食を注文する。
だが、注文しても新人の子は動かない。
「注文は以上だけど」
そう言うと、首を傾げながら奥へと戻ってしまった。
なんとも変な新人を雇ったものだ。
教育するのが大変そうだな、と他人事ながら思う。
さすがに注文した料理を忘れられることはなく、俺たちは料理を食べ、満足して店を出ようとする。
すると、あの新人の子が俺の方へやってきて、俺の服を掴んだ。
あれ? もしかして、俺に一目惚れとか?
連絡先交換してほしいとか?
そう思って期待していると、そうではなかった。
当たり前だけど。
その新人の子は少しだけ顔をしかめてこう言ったのである。
「あの……無視するなんて可哀そうだと思います」
何の話かまったくわからない。
なんのことか聞こうと思ったら、その子は奥の方へ戻ってしまう。
なんなんだよ。
いつも無視されてるのは俺の方なんだけどな。
そんなことを思いながら、店を出ようとしたら、ゾクッと背筋が寒くなった。
終わり。
■解説
新人の子はコップが足りないと言われて、2つ持ってきている。
そして、注文も、語り部が終わってもその場を動こうとしなかった。
さらに最後は「無視をするのは可哀そう」と言っている。
つまり、そのテーブルには、もう一人、新人だけしか見えない者がいたのではないだろうか。
マッチングアプリ
今まで仕事ばかりで恋人はおろか出会いさえなかった。
だから、ものは試しということで、マッチングアプリを始めてみた。
それで今、一人の女の人とやり取りをしている。
彼女のプロフィールの写真は若くて、可愛くて、正直やり取りできていることさえ奇跡のようなものだ。
やり取りを始めて2週間が過ぎたのだが、そろそろ会いたいと思っている。
だけど、こういうのはガツガツ行くと、嫌われると聞いた。
だから、自然に会うように誘導しないと。
そこで俺は相手を少しだけ怖がらせることにした。
『そういえば、また、強盗殺人があったの知ってる?』
『うん。ニュース見たよ。怖いよね』
『一人暮らしの女の子とか、危ないんじゃない?』
『やっぱり、そうかな?』
よし、これで、恋人ができれば防犯にもなるんじゃないかっていう感じで誘導しよう。
そう思っていたら。
『でもさ、強盗って頭悪いよね』
意外な方向の返事が来た。
『どういうこと?』
『だってさ、人を殺したら、罪が重くなるでしょ?』
『まあ、そうだね』
『そんさ、家に誰もいないときに行けば、殺さなくてもいいわけだよね』
『確かにそうだけど、いつ、その家が留守になるなんてわからなくない?』
『あ、そっか』
なんだか、抜けた子だ。
でも、そういうところが可愛いと思う。
『でもさ、やっぱり一人だと怖くなっちゃった』
お、来た来た。
それじゃ、さっき考えた方向で返してみよう。
『彼氏がいれば防犯になるんじゃないかな?』
『そっか。そうだよね。じゃあさ、会ってみる?』
『うん。会ってみようよ』
よしよしよし、これだ!
これで会えるぞ。
『でもさ、ちょっといきなり私の家を教えるのは怖いから、そっちの家で会えない?』
本当に抜けた子だ。
いきなり男の家に行く方がよっぽど怖いと思うんだが。
まあ、別に俺は何もしないけど。
『いいよ。じゃあ、家の中を掃除しておかないと』
『あははは。それじゃ、住所を教えてくれるかな?』
俺は彼女に家の住所を教え、会う日時を決めた。
そして当日。
約束の時間になり、そわそわしてると、彼女から連絡がきた。
『迷ったから、駅まで迎えに来てくれない?』
『いいよ。今、行くから待ってて』
そういうところも可愛いと思って、俺は駅に向かった。
だが、駅にそれらしき子がいない。
駅の中を探し回って、彼女に連絡をしてみたが、返事も来なかった。
そして、1時間が過ぎた。
返事も帰って来ないので、俺はやっぱり騙されたのかと思って、イライラして家に帰った。
家の中に帰って、俺は「そういうことか」と納得した。
終わり。
■解説
やり取りしていた相手は空き巣犯。
語り部の家の住所を手に入れた後、家を留守にさせている間に空き巣に入った。
つまり、語り部が家に戻ると、家が荒らされていたわけである。
死神の予言
友達に人の死を予言できる奴がいる。
芸能人の〇〇が1ヶ月から3ヶ月以内に病気で死ぬとか、●●が半年以内に自殺するとか、ことごとく当てている。
あまりにも当てるから、その友達のことを死神と言っているやつもいるくらいだ。
周りも面白がって、色んな芸能人に対して「いつ死ぬの?」と聞いている。
だけど、その友達は「いくらなんでも、そんなにコロコロ死なないって」と言ってそんなにたくさんの予言はしない。
そんな中、また、友達がある芸能人の死を当てた。
なんと心筋梗塞っていうピンポンとでだ。
俺は結構、その友達と仲が良くて、この前家で宅飲みをしたとき、なんでそんなに当てられるのかを聞いてみた。
するとその友達は「まあ、お前なら言ってもいいか。他言するなよ」と前置きをしてから教えてくれた。
そのトリックは実に簡単なものだった。
その友達は親戚が大きな病院を経営していて、そこに多くの芸能人が来るらしいのだ。
そして、その診察結果をコソッと教えてもらっていたらしい。
なるほど。
俺は妙に納得した。
同じ病死でも、当てられない芸能人がいたのは、その芸能人はその病院に行ってなかったからだろう。
病死や自殺は病状が悪化していることやうつ病を発症しているとかで、予想したのだそうだ。
そして、またその友人はある芸能人の死を予想した。
その1週間後、その芸能人は自宅で刺殺されたとニュースが流れてきた。
周りはまた、その友達が当てたことで大騒ぎをしている。
タネを知ってる俺はちょっと冷めた気分でそれ見てた。
こんなことなら、教えてもらわなければよかった。
終わり。
■解説
語り部の友人が死を当てられたのは、病気や自殺くらいである。
だが、最後の予想は「殺人」である。
では、なぜ、その友人は当てることができたのだろうか。
もしかすると、その友人が犯人なのかもしれない。
過保護
僕のお母さんは周りから過保護って言われている。
よくわからないけど、みんなそういうのだから、そうなんだろう。
この前も、初めて僕が学校で怪我したとき、お母さんが慌てて学校に来た。
僕の体を見て、怪我が大きくないことを見て、ホッとしていた。
そして、お母さんは先生に「この子はいつもボーっとしてて、家でもすぐ怪我をするから気を付けて見ててほしい」と頼んでいた。
お母さんの言う通り、僕はいつも怪我をしてばかりいる。
そのせいで体中傷だらけだ。
先生は僕に「いいお母さんだね」と言っていた。
普通は小学3年生にもなれば、こんな傷くらいじゃ、親は学校なんかには来ないものらしい。
多少は過保護だけど、とってもいいお母さんだから、大事にしなさいとも言われた。
そのことがあってから、先生はよく僕を気にかけてくれるようになった。
体育のときも、無理するなと言われるし、先生の手伝いとかもしないでいいと言われる。
クラスの人には少しズルいと言われるけど、こうやって先生に気にかけてくれるのは嬉しかった。
さてと、今日も学校が終わったらまっすぐ帰ろう。
お母さんが待ってるから。
終わり。
■解説
語り部の母親は、語り部が家でいつも怪我ばかりしていると言っている。
現に、語り部の体も傷だらけだ。
だが、学校で怪我をしたのは『3年生』までしていなかった。
(今回の怪我が初めてだと言っている)
ということは、語り部は母親が言うほど、「ボーっとしている」わけではない。
つまり、語り部は日常的に語り部を虐待している。
そして、語り部は一度も母親のことをいい親だと言っていない。
双子の姉妹
私には双子の妹がいる。
その妹とは幼いころからずっと仲良しで、お互い結婚して子供が生まれてからも頻繁に会っているのだ。
学生の頃から友達よりも妹と遊ぶことが多く、周りから見ても本当に仲のいい姉妹だと思う。
子供も同時期に生まれて、子供は私の方も妹の方も男の子だった。
その子供も今年でもう5歳になる。
父親に似てきて、余計愛おしい。
出産や育児に関しても、同時期に子供を授かった妹がいたため、不安になることもなかった。
ママ友なんか作る必要もなかったし、妹と二人で、あれこれ育児の話をするのも楽しかった。
子供が生まれてきても、二人で揃ってベビーカーを押しながら色々なところへ出かけていた。
子供も同年代というのは本当に助かる。
同じ時期に同じような悩みを持つ妹に相談できるのだ。
これほど頼りになる存在はない。
もちろん、妹も私を頼ってくれているのが嬉しい。
私たちの仲がいいので、当然ながら家族ぐるみで仲がいい。
夫も向こうの旦那さんと休日に趣味の釣りに出かけたりしているし、子供も向こうの子供といつも遊んでいる。
子供が2人で並んで仲よさそうに遊んでいる。
見ていると、2人とも顔がそっくりだ。
やっぱり双子なんだから、子供も似ているのだろう。
そんな2人を見ていると兄弟のように見えるし、まるで昔の私たちのように思えてくる。
こんな幸せな時間がいつまで続けばいいと思う。
終わり。
■解説
子供は『夫に似ている』と言っているのに、『妹の子供』と似ているのはおかしい。
(母親似であれば、2人が似るのはわかる)
DV男
夫は酷いDV男だった。
何か気に入らないことがあれば、暴言はもちろん、暴力も振るわれた。
怯える毎日。
私の中で、ある日、突然限界がやってきた。
私は着の身着のまま家を出た。
とにかく夫から離れ、普通の生活を送りたかった。
手持ちのお金を使い、遠くに逃げた。
夫に見つかることがないように。
正直、野垂れ死ぬことも覚悟していたが、幸運なことにすぐに住み込みの仕事が見つかり、私はようやく普通の暮らしを手に入れる。
それから3年が経った頃、私は色々と相談に乗ってくれた男性からプロポーズされた。
私はその人に、籍は入れられないと告げた。
どうしても元夫に居場所を知られたくなかったのだ。
だがその人は快く受け入れてくれた。
私たちは同棲するようになり、すぐに私は身ごもり、子供を産んだ。
幸せ過ぎて怖いほどだ。
その人は不安がる私に、「今まで不幸だった分が返ってきてるだけだよ」と言ってくれた。
家族のためにも、過去のことは忘れて前を向いて進んでいこう。
そう思った矢先だった。
私は仕事の関係で、外回りをしているときに偶然、元夫と再会した。
昔の光景がフラッシュバックして、パニックになるところだった。
すると元夫は深々と私に対して頭を下げてくる。
「昔のことは本当にすまなかった。俺はもう、君たち家族の邪魔をする気はないんだ」
そう言った。
今回も私を探したのではなく、本当に偶然だったらしい。
そして、元夫は左手の薬指の指輪を見せてくる。
「俺、結婚してるし」
そう言って、照れくさそうに笑った。
よかった。
これでもう何一つ心配事はない。
これから私は新しい家族と共に幸せになるため、頑張っていこう。
終わり。
■解説
元夫は語り部を探す気はなかった(偶然会った)と言っているのに、なぜ語り部に『家族がいること』を知っているのか。
また、語り部と元夫は離婚ができていないはずである。
それなのに、元夫は「結婚している」と言っている。
このことから、元夫は語り部のことを『調べている』可能性が高いし、「結婚している」というのは語り部とのことを指している(まだお互い夫婦だと言っている)ように思える。
つまり、元夫は語り部に『執着』していて、これから語り部を取り返すため、何かをする可能性が高い。
懐かしいオモチャ
例の感染症が落ち着いたから、お盆休みを使い、俺は4年ぶりに実家に帰った。
やっぱり実家は落ち着くし、楽だ。
黙っててもご飯が出てくるし、洗濯もやってくれる。
買い物には付き合わされたりするけど、一人暮らしだから家でも普通に買い物に行くから面倒くさいとは思わない。
風呂を沸かすなんて手伝いもするが、それもいつもやっていることだ。
そう考えると、学生の頃はこんなにも恵まれてたのかと気づく。
その当時は親が煩わしくて、早く出て行きたいと思っていたけど、今となってはできることなら実家に戻りたいくらいだ。
4日ほど実家に滞在し、帰る前日になったときだった。
親が物置にあるガラクタを捨てるから、いるものがあれば持って行けと言われた。
そのガラクタというのは俺の私物だ。
漫画とかゲームとか、オモチャとかいろいろ。
それを見たときは懐かしさで、かなりテンションが上がった。
本当は全部持って帰りたかったが、さすがにそれは無理だ。
そんなことをすれば、俺の生活スペースがなくなる。
なので、泣く泣く、必要最低限のものを持って帰った。
その日の夜。
実家にいたのは数日だったのに、一人に戻ると途端に寂しくなる。
持って帰ってきたゲームをやってみたけど、なんだか気が乗らない。
やっぱり、一人は寂しい。
けど、そんなのは2、3日も経てば感覚は戻るだろう。
なので、その日はやることもなかったので、さっさと寝ることにした。
そして、俺は真夜中の物音で目を覚ました。
ガタガタという音だ。
一気に血の気が引いた。
泥棒だろうか?
もしかしたら、お盆中に留守にしていたから狙われたのかもしれない。
物音は未だに収まらない。
俺は意を決して、机の上に置いてあったハサミを手に持ち、恐る恐る寝室から出た。
パチッと電気をつける。
部屋の中を見渡すが誰もいない。
そして、音がする方を見ると、そこには懐かしいおもちゃがあった。
音楽に合わせて動くというおもちゃだ。
実家から持ってきたやつで、缶に手が付いているもので、音に合わせて動くのだ。
なんだ。
ビックリさせやがって。
俺はおもちゃの電源を切って、再び眠りについた。
終わり。
■解説
音楽に合わせて踊るオモチャは、『音』に反応して動くというものである。
では、そのオモチャは、『最初になんの音』に反応したのだろうか?
語り部の家には泥棒が侵入していて、その物音で、オモチャが動き出していたというわけである。
交通警備員
夏休みは実家に帰っても何もすることがないので、バイト三昧にすることした。
手っ取り早く稼ごうと思って、時給の高いところを選んだのが間違いだった。
日給15000円。
それは俺にとってかなり破格の値段だったから、何も確認しないで飛びついた。
バイトの内容は道路の誘導警備員だ。
ハッキリ言って、1日目で後悔した。
まず、日給として考えると高いが、実際は時間が12時間で、誘導場所に向かうまで片道1時間かかる。
なんだかんだ言って、15時間くらいは拘束されるようなものだ。
時給に換算すると1000円ちょっとだろうか。
なにより炎天下の中、立ち続けないといけないのが拷問に近い。
これなら多少時給が低くても、コンビニやスーパーの店員とかの方がいいだろう。
エアコンの効いた職場にすればよかった。
とはいえ、なにも12時間ぶっ通しで立ってないといけないというわけじゃない。
2時間に1回30分くらいの休憩がある。
結構、休み時間が多いじゃん、と思うかもしれないが、逆に30分じゃ体力が回復できないくらい辛い。
ホント、太陽ってヤバいよ。
だって、鉄を置いておいたら、太陽の熱で肉が焼けちゃうこともあるらしいし。
まあ、とにかく、一度やることになったのだから、諦めてやるしかない。
来年は絶対にやらないと心に誓った。
車の中で、ガンガンエアコンを付けたいところだけど、ガソリンも高くなっている今、それもなかなかできない。
とにかく、冷たい物を飲んで乗り切るしかないのだ。
飲み物を飲んで、ぼーっとしていると、アラームが鳴る。
休憩の交代時間だ。
また、地獄の2時間の始まりだ。
俺が今、来ている現場は土砂崩れかなにかで、山の2~3合目のところを片側通行にしているために、車を止めたり誘導するのだ。
山の中の現場だから暇かと思ってたけど、観光シーズンのせいか、意外と車が通る。
しかもバスやトラックをうかつに停めると、運転手にブチ切れられたりする。
はあ、やってられん。
ドンドン、憂鬱になる。
俺が向かっていく中でも、何台かの車が通っていく。
「……交代ですよ。休憩どうぞ」
俺とペアの人は70歳のじいさんだ。
よく、こんな炎天下の中、平気な顔で立ってられるもんだ。
ホント、凄いよ。
だが、俺が声をかけても、じいさんは無反応だ。
「休憩どうぞ!」
叫ぶように言うが、またも無反応。
立ったまま気絶してるのかと思ったが、耳のところに補聴器が入っていない。
じいさんの足元を見ると、案の定、補聴器が落ちている。
俺は補聴器を拾い上げて、じいさんの肩を叩き、補聴器を渡す。
「ああ! ありがとう! 通りでさっきから聞こえづらいと思ったわけだ」
「休憩ですよ」
「ありがとう。じゃあ、よろしく」
じいさんは俺にトランシーバーを渡して、休憩のために車の方へ歩いていく。
さてと。
また2時間頑張りますか。
……あれ? なんかサイレンの音がするな。
なんだろう?
終わり。
■解説
トランシーバーを使っているということは、車のストップやゴーは無線を通じてやっていることがわかる。
つまり、トランシーバーで「車を通すので、そっちの車を止めてください」という連携を取っているのだ。
だが、おじいさんは補聴器が取れていたため、『トランシーバーの声』は聞こえていないはずである。
(語り部が大声を出しているのに、おじいさんは反応できていない)
そして、交代をするとき、語り部の横を車が通っている。
さらに、最後、サイレンの音がしていることから、誘導ミスによる追突事故が起きていることが考えられる。
井戸から伸びる手
森林浴は心が落ち着く。
だから俺は休みの日になると、森に出かけて行って森の中を散歩する。
ただ、いくら森林浴が好きだとといっても、それは晴天で空気が澄んでいるときじゃないと意味がない。
どんよりと曇った、薄暗い日なんかは森の中は逆に不気味な雰囲気へと変わる。
この日も、ちょうどそんな薄暗い日だった。
梅雨で雨の日が続き、ちょっとした晴れ間が出たから、森林浴に来てはみたがすぐにどんよりと曇ってしまった。
すぐにでも雨が降ってきそうだ。
今日はもう帰ろう。
そう思って森を出ようとしたとき、奥から「助けて!」という叫び声が聞こえた。
声がした方向にいくと、そこには井戸があり、その淵で10歳くらいの女の子が必死にもがいていた。
女の子の腕を白いスラッとした女性の手が掴んでいる。
母親でも落ちそうになっているのだろうか。
俺はすぐに駆け寄り、その手を引き上げた。
女の子は笑顔で「本当にありがとうございました。これでもう大丈夫そうです」と頭を下げてお礼を言ってくる。
俺は「気にしないでいいよ。困ったときはお互い様だからね」と返す。
女の子はもう一度頭を下げて、行ってしまった。
今日は曇りだったが、良いことをしたことで、俺の心は晴れやかになったのだった。
終わり。
■解説
語り部が助けた女の子は、『女の子一人だけ』で帰ってしまっている。
『助けたはず』の女性はどこに行ったのだろうか。
そして、女の子が言った「ありがとうございました」というのは何を指しているのか?
それは、女の子は女性の幽霊に憑りつかれ、井戸に引きずり込まれるところを、語り部に助けられたことで、今度は、幽霊は語り部に憑りついたのである。